自宅でのリモートワークが日常になった頃のことだ。プロジェクトの追い込みで、深夜にチームのメンバー数人と通話ツールを繋ぎ、それぞれの自宅から画面を共有しながらコードレビューを行っていた。
画面の向こうには数人のアイコンが並んでいる。深夜の静寂の中、キーボードを叩く音や、資料をめくるペーパーノイズだけが、それぞれのヘッドホンを通してかすかに聞こえていた。
作業を始めてから二時間ほどが過ぎた頃だった。
耳元で作業音に混じり、ごく小さな「ぼそぼそ」とした話し声が聞こえた。最初は、誰かがYouTubeの動画でも流しっぱなしにしているか、あるいは独り言だろうと思い、Tさんは特に気に留めずコードに集中した。
しかし、その声は徐々に大きくなり、聞き取りやすいトーンに変わっていく。
「なぁ、うるさいぞ」
メンバーの一人であるSさんが、不機嫌そうな声を漏らした。
「さっきから独り言がずっと聞こえてるんだけど。誰かマイクミュートにするの忘れてないか?」
Tさんは手を止めた。自分のマイクの状態を確認するが、当然ミュートになっている。他のメンバーたちも「こっちは無言だよ」「音楽もかけてない」と、それぞれ首をかしげた。
誰も喋っていない。それなのにSさんのヘッドホン、そして全員の通話音声には、確かに別の声が混ざり込んでいた。
奇妙な空気が流れる中、全員が作業の手を止め、リモートワークツール越しに互いの顔を見合わせたその時。画面に映し出された、メンバーの一人であるFさんのWebカメラの映像に、妙なものが映り込んだ。
Fさんの背後にある部屋の暗がりで、人の影のようなものがゆらりと動いたのだ。
「待って、Fさん。後ろに何かいるぞ!」
別のメンバーが慌てて声を張り上げた。
Fさんは驚いたように「え!?」と呟きながら、急いで自分の背後に振り返った。
「誰もいないぞ?…気のせいじゃないか? 暗くて見間違えたんだよ」
Fさんは苦笑いしながらそう言ったが、その顔色は青ざめ額に脂汗がにじんでいた。通話の向こう側で聞こえていた、あの不気味な話し声は、Fさんが振り返った瞬間からピタリと止まっていた。
「…今日はもう終わりにしよう。みんな疲れてるんだよ」
リーダーの一言で、その日のリモートワークは早々に切り上げられることになった。通話が強制的に切断され、自分の部屋の静けさに戻った時、Tさんは酷い疲労感に襲われ、そのままPCを閉じて床についた。
翌日以降、あの日の深夜に起きたことについて、チーム内で話題に上ることはなかった。
ただ、その夜を境に、Fさんは原因不明の激しい体調不良を訴え、そのまま会社を長期の休みで寝込んでしまうことになった。今でもリモートワークで夜遅くにヘッドホンをつけると、あの時聞こえた「ぼそぼそとした話し声」の幻聴が、耳の奥から離れないことがあるという。


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