深夜の静まり返った編集スタジオで、Dさんはナレーション収録のデータを整理していた。数日前に録音された膨大な音声素材のノイズを除去し、全体のバランスを整えるための地道なオーディオ編集に没頭していた。
スタジオ内の照明は落とされ、手元を照らすデスクライトと、波形が流れるモニターの光だけが暗がりの中にぼんやりと浮かび上がっている。
トラックのノイズリダクションをきれいに仕上げるため、Dさんは誰もいないはずのアフレコ用防音ブースで事前に収録しておいた環境音、いわゆる「ルームトーン」のオーディオトラックをソロ再生にした。
ヘッドホンを装着し、マイクが拾った空間の静寂を確認する。
通常であれば、そこには人の声も楽器の音もなく、微かなサーというホワイトノイズと、空気の振動がわずかに乗っているだけの「無音」が広がっているはずだった。
しかし、ヘッドホンから耳に届いたのは、完全に静まり返った音ではなかった。
サーというノイズの向こう側に、かすかな衣擦れの音が混じっている。布と布が擦れ合うような気味の悪い微かな摩擦音。
「…ん?」
Dさんは眉をひそめ、波形編集ソフトの画面に目を凝らしながら、マウスを操作して別のトラックの音量を調整した。
その時だった。
Dさんがマウスのカチッ、カチッとクリックした、まさにそのタイミングに合わせ、スタジオの奥にあるガラス張りのアフレコブースの向こう側から、コンクリートを鋭い爪で引っ掻くような低い音が、リアルタイムで重なって鳴り響いた。
カチッ…シャー、ガリガリッ。
クリックを止めると、引っ掻き音もピタリと止まる。恐る恐るもう一度マウスを小さくクリックしてみると、ヘッドホンの向こう側で、そしてブースのガラスの向こうの暗がりから、再び同じタイミングでガリリ、と嫌な音が這うように響いた。
背筋が一気に凍りついた。
誰もいないはずのブースの中で、何かが自分のマウスの操作を覗き込み、その動きに合わせるように爪を立てている。
息を殺し、Dさんはゆっくりとヘッドホンを外し、デスクの上のマウスからそっと手を離した。
スタジオ全体を包み込むのは、ただ静けさだけだった。
背後を確かめたが、そこにはただ暗闇が広がっているだけだった。
それ以来、Dさんは深夜にスタジオで単独のオーディオ編集を行うときは、必ずアフレコブースの方向へ背を向けないよう、椅子の向きを徹底して変えるようになったという。



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