自宅のスタジオで、Aさんは一人、映画のカラーグレーディング作業に没頭していた。シネマカメラで撮影された重厚な映像のトーンを整えるため、専用のグレーディングソフトを立ち上げ、モニタに向かって細かくパラメータを調整していく。
夜が深まるにつれ、部屋の明かりは落とされ、頼りはデスクの上のキーボードバックライトと、正確な色を映し出すキャリブレーション済みのモニター画面だけになっていた。
作業が終盤に差し掛かった頃だった。
なんとなく違和感を覚え、Aさんは手を止めた。
画面の端に表示されている、肌のトーンや色相バランスを確認するためのウェーブフォームやベクトルスコープの数値が、マウスやコントローラーに触れていないにもかかわらず、わずかに、しかし規則性を無視してパタパタと上下し始めている。
「ん? スコープが暴れてるか?」
接触不良を疑いながら、Aさんはビデオプロセッサやノードの設定画面に視線を移した。
すると画面上のカラーホイールのパラメータが、まるで目に見えない誰かの指に回されているかのように、勝手にクルクルと回転し始めていた。
それに連動するように、タイムラインの映像全体の色温度が、みるみるうちに異常なほどの低温、すなわち冷たい青みへと傾いていく。
「おい待て…なんだこれ」
冷や汗が背筋を伝った。慌ててメインのプレビュー画面に目をやると、そこに映る登場人物たちの様子が一変していた。
画面の中の人物たちは、先ほどまで自然な血色をしていたはずだ。しかし、色温度が異常に落ちた映像の中で、彼らの顔だけが生気のない土気色に変色している。さらに気味が悪いことに、解像度の高すぎる映像の隅で、その口元だけが不気味に歪み、見えないカメラに向かってねっとりと笑っているように見えた。
触ってもいないパラメータが動き、映像のなかだけが勝手に変質していく。
Aさんは反射的にプロジェクトを保存せず、メインの電源ケーブルを引き抜こうと手を伸ばした。
その瞬間、部屋の隅で、パキリ、と乾いた音が聞こえた。
背後を確かめたが誰もいない。
電源を落としたモニタの黒い画面には、青白く冷え切った部屋の中で固まっているAさん自身の姿だけが、静かに反射していたという。


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